原始の知恵と地球語で自分探し 「原始編」


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原始 - はじめに息があった -

1、ヒトのはじまり
2、火の洞窟
3、はじめに息があった
4、原始からの問いかけ:まねているか
5、自然の循環
6、からだの快と美

もくじ ・ 息の仕方 ・  地球語瞑想体操

1、ヒトのはじまり

現代の私たちと同じ遺伝のしくみをもつ祖先は、自然の摂理である日突然生まれてきた。その祖先は、頭がいいからという理由で育ててくれた仲間をリードし、最初から強い存在になれただろうか?たぶん猿人たちとの樹上生活では、動きが劣り、臆病で泣き虫な厄介者、すぐにも絶えそうな存在だったと想う。目の前にないことを繰り返し思い起こせるヒトの脳の積極的な使い方が世代を重ねて育つまでは、それは恐れや不安を募らせるほうに働くだろうから。弱虫仲間が声をかけあい、木の枝や石を武器や道具に工夫してかばい合い、かろうじて生きのびた。マンモスはじめ自分より力の勝る動物が闊歩していた環境で、ヒトの祖先はなかなか樹から完全に下りる勇気をもてなかっただろう。

そんな彼らが、他に優って生き抜く意識と意欲を急激に湧かしたとすれば、それには大きな刺激が必要だったはずだ。その最大の刺激は「火」の力に出遭ったことだと想う。天然火災が森を焼き、強くておそろしい四つ足のイキモノを殺すのを観た!力あるイキモノが逃げ惑うのを見た!そして、焼け死んだ死体やこげた木の実は、いい匂いがしておいしかった!「火をわがものにすれば、強くなれる!」 この電撃が彼らの手を取り合わせ、地上に降り立たせた。火を絶やさない新しい暮らしがはじまった。

風が火をかき立て、水が火を消すことを彼らはすぐに学んだ。風雨を避ける洞窟は、火の保存のための特別な場所となった。いのちを護る熱と光、太陽の分身のある場所。火の番が常につく。そこから分けた火で身を護りながら狩をする、獲物を焼く、狩や食べるための道具つくりに使う。「火を自分のものにする」という一つのアイデアが、過去の猿人とはまったく異なる共同体を急成長させることになった。生きるための積極的な分担と協力がはじまる。

そうなると、感情の表現だけでなく、ことやものに関しても伝え合いたい。本格的な言語の夜明け。彼らは「火」を表そうとして、たぶん唇を尖らし、寝た火を吹き起こす口つきを真似た。日本語古語でもギリシャ語など印欧祖語でも火は唇音にはじまる音節だ。現代でも、その名残りのあることばを私たちは使っているのだ。現代文明も、原初の暮らしと無縁ではなく、彼らが張った長い根の上に育ったのだ。枝先から先へ先へと競い伸びるだけでなく、根の奥にプログラムされた私たちの心身の特性やそれぞれの個性に気づき、全体が通うようにすることは、個人にとり、そしてこの惑星全体のいのちにとって、未来を開く鍵だと思う。

ヒトはみな多かれ少なかれ、他に比べての劣等意識と、それに打ち克ちたい意識を潜在的にもっている。そんなヒトの特性も、火の利用前後の重い体験から引きずっているのかもしれない。猿人の中のマイノリティーとして縮んでいた状態を克服できたのは、他がもたない火の武力のお蔭と解釈してか、ヒトはずっと、より恐ろしい武力を求めつづけてもきた。しかし、ヒトが生き延びられたのは、むしろ火を護ってつながり合ったお蔭である。個人の身体も、特定の筋肉のみを鍛えて強さを誇るより、身体全体のつながりをよくすることが健康を支える。

2、火の洞窟

洞窟、一族のいのちをつなぐ母なる大地の子宮。
そこに今われらのいのちの火がある。
木を運び込んでは、火に食べさせ、火のいのちを保つ。
息を吹きかけると、火はかっと輝き、
外の厳しさになえたわれらのいのちの火もかき起こす。
闇を照らし、濡れたからだを乾かし、あたためる。
外では野獣が吼え、嵐が舞っていようと、
ここでは、われらは癒されてつながる。

お腹をすかせたこどもが声をしのんで泣き出す。

ひぃうう、ひぃうう、ひぃうう

今日は嵐、お腹がすいてるのはみんな同じ。

ひぃうう、ひぃうう、ひぃうう

いっしょに大人も力ない息の音を真似る。
かすかな音声でも大勢で立て、窟の壁までが真似るので、
悲しそうな息がさざなみのように空間を満たし、ゆれる。
泣いていたこどもは驚き、そして笑いだす。
みんなも真似てけらけら笑う。
壁も天井もごつごつの床も笑う。

おおおぅ、あああーーーー

「生きとるよーー」とでもいうように、
ひとりが大きな声をあげて長い息を吐く。
低く、次第に高く、強く、

おおおぅ、あああーーーー

みんなも続いて大きな声。
窟のなかに、一族の息が大きくうねる
音の息は大地の奥深くに染み、天空にもはじけ進む。
明日への力が湧いてきそうだ。

一人が燃えさしの枝をつかみ、
窟の壁に四つ脚のイキモノを描く。四つ脚が走ってる。
枯れ木を焦がしては石で削っていた一人は
それを裏返して叩きはじめる。

んたんたんたんた、かかかかかかか

叩くリズムに、大勢の声が合わさる。
身体の動きも合わさる。

ゆいゆいゆいゆい、わかわかわかわか
うぉおおおお、きききききききき

いろんな発声がめちゃくちゃに飛び交う。
壁の四つ脚に挑むように、腕を動かす者、跳ねる者。
声はやがて、より高みへ連れてゆく声に合わさろうとする。
合わさるとまた誰かが別の声を吹き入れる。
そしてまた調べがまるくなる。

大いなる力がわれらを包み護ってくださっている、
明日は四つ脚のエモノをわれらにお恵みくださる。
大きな黒い影たちが
窟の中を伸び縮みして踊りまわる。

3、はじめに息があった

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宗教もことばも絵も音楽も踊りも共同体の仕組みも考える工夫も、ヒトの文化すべてが、こんなふうに火の利用とともにいっきに噴出したと想像する。聖書には「はじめにことばがあった」と書かれているが、ヒトがヒトになる最初は、「ともに息をする」ところからはじまったと私は想う。ことばとして分化する前、ヒトは息にずっと敏感だったはずだ。悲しい息、うれしい息、困った息。誰かがもらした息を真似、仕草を真似て共感を伝えたのがコミュニケーションの始まり。そこから、意識的に息や動きを共にして人々が固くつながることを学んだ。集団の中で繰り返した音声を伴う息と、そのときのイメージのつながりが次第に固定化され、ことばとして育ったのだと想う。

だから初期のことばは、身体の中と宇宙をつなぐ息の一種だった。単なる伝達手段ではなく、大いなる世界の源につながり、身体を蘇らせる力をもっていた。口から吐くことばには、いのちの源につながる「ことだま」が宿ると古代日本人や米インデアンが信じたのも、そんな背景からの伝統だったにちがいない。

地球自然の歴史を振り返ると、そこには常に限りなく分化・多様化が働いてきた。けれど、旧いものすべてが多様な形に進化したのではない。単細胞生物からヒトまであらゆる過程を残しながら、それらすべての営みの循環によって地球の自然全体が生きるよう進化した。今も、旧い単純な生物の存在なしには、進化したものも生きられない。地球は、多様化によって中身をより詳しく究めたいと願い、その一方で全体が一つとして調和し、持続したいと願う、ふたつの矛盾する傾向を常に抱えている存在なのだ。

だから、その一部である私たちの原点もまたその矛盾する傾向をもつ。音も光も無関係な世界で、触れた刺激に本能的に反射する単なる管のイキモノ:ミミズに似た脳を、ヒトも腸間膜にもっているという。魚、鳥、諸動物の進化の過程で発達したさまざまな脳を積み合わせた上に、高速で分析するヒト特有の脳を被せて、それら総合の働きのもとで、私たちの身体は生きる。いのちを本能的に護るのは、分析する脳ではなく旧い脳だ。まだヒトになったばかりで、ことばの数も少ない原始のヒトは、記憶も頭の先だけでなく、あらゆる器官や筋肉や細胞で蓄えただろう。髪の毛までが一時的な匂いの記憶装置として働いていたらしい。

息する肺は、筋肉の働きなしでは動かない。息の状態は、身体の動きと深くかかわる。そしてそれらは感情・心の状態とも深くかかわる。原始の人々はそのことを直観していた。そして、元気を取りもどす息と動きを仲間と共に行い、互いに癒し合ったと想う。中国では、昔から「気」の流れに関心を深め、経穴・経脈・絡脈など、身体の中の気の通り道や、それを刺激して快を誘う多彩な方法を開発してきた。ヨガや禅など各種の瞑想法もまた呼吸で身体を整え、心と宇宙をつなごうとする。これらは数千年どころか原始以来、身体と心そして集団の調和を求めて行われていた方法の延長として、永く伝わっているのではないだろうか。

4、原始からの問いかけ:まねているか

キミは真似るの好きかい?
真似るっていうのは、太陽、海、風、鳥、樹、お父さん・・
誰でもいいけど、よーく見、聴き、感じ取った誰かを想いうかべて、
しっかり身体全体でそれになることだよ。

赤ん坊にくらいは真似たことがあるだろ?
だってあんなにかよわいいのちで、澄んだ眼でにっこりされたら、
キミだって同じ顔になってにっこりしてしまうね。
すると、赤ん坊のすばらしさがキミの中にきゅーんと伝わる。
赤ん坊とつながるよね、

太陽になるとき、目をつぶっていても身体中に光が溢れてくる。
海になれば、キミの血は潮とその匂いでいっぱいだ。
樹になろうとすると、キミの足の裏から根が大地深く伸びてゆき、
手の指から茂る葉が光を求め、息を吸う。
こころから真似るとき、真似た相手とつながって、
その力がきみの中にも入り込んでくる。
絵に描いて真似れば、絵のなかでそれは起き上がる。

いやなやつにもなれるかい?
たとえば、毒蛇。
突然にらみつけるあの眼力。
たとえば、ナメクジ。
キミの身体はしめって、地に吸いつく。
いやなやつと感じても真似てみたら、
なんとなく同情が涌いてこないかい?
少しだけつながったのかな?

キミの使うことばにも、
そんな力があるのかな?
たとえば太陽というとき、キミの身体は光で溢れる?
ナメクジと呼ぶとき、ナメクジをただ蔑んではいない?
ことばで呼び出すものが、みんな生きてつながる?

キミはキミになれるかい?
キミは、そのままでキミ?
じゃあ、キミの身体を動かし生かしているキミは誰?
その力はどこからくるの?
大気?キミが食べる他のいのちたち?
キミの身体に入ってくるもの、通り過ぎていったものと、
キミの境目はどこにあるの?
キミは、キミの身体を通してなりたいように真似られる。
では、なりたいという意志が、キミ?ほんとう?

意志はどこから湧くか、その根っこの奥を探ってみた?
キミの根っこはキミ自身の中にしかないの?
だとしたら、キミはキミの狭い窟の王さま
しんどいんじゃない?

地球や宇宙がキミの根を支えているのを感じない?
キミの身体で地球になってみたことある?
そうすれば誰ともつながれるかもしれない
キミたちがみな、大地とつながり
喜びを分かてば、世界はずっとつづく気がしてこない?

5、自然の循環

宇宙>太陽系>地球>生物個体>臓器>細胞>化学物質>微粒子
こういう世界の中で、私たちは生物個体のうちヒトに所属している。私たちの身体から見て、限りなく小さな世界から巨大な世界までが、どうやら電磁的、物質的に通い合い、常に動きひろがりながら存在しているらしい。そして地球は、宇宙や太陽の下、大気・大地・海の間で水と空気を、あるときには速く、あるところではゆっくりと滞りなく循環させている。

地球上のイキモノが大気を吸い込みまた大気に戻している。50億年以上かけて大気は育ち、植物と動物の呼吸を循環させ、死んだものが新しいいのちを支え育てながら自然の循環はつづいてきた。貧富も貴賎も関係なく、息は、大気を介して垣根なく地球上でつながる。いのちにとってかけがえのない水もまた海に流れ、大気を介して雨になり循環する。そんなすべてが、地球という生きものの呼吸だ。

社会もまた地球世界のそのしくみからはずれ得ない。どんどん多様化を進めるが、グローブの中で一つになって循環する流動性をもたなければ窒息する。個人の身体やこころもまた例外ではない。健康で快い身体には、気がよどみなく循環している。滋養をたくさんとれば健康になるとは限らない。所得がふえ贅沢できることが幸せを遠ざける場合もある。一人一人が他とつながり、助け合うとき、つながりの中を喜びが伝う。

ほとんどがハングリーな原始の日々、わずかな木の実しかなくても、ないからこそ分かち合う喜びは大きかった。喜びとともに身体に入れる食べ物は、むだなく身体中に循環した。ところが現代は、毎日身体を労せず食べて当然と考え、身体の喜びの麻痺した人々がいる一方で、そんな社会から搾取され、鬱屈し、憤るハングリー社会もある。どちらも健康な快いエネジーの循環をもてない。社会・経済のしくみがグローバルにつながってしまった今としては、地球全体に快い風がまわらなくては行き詰まる。

社会に快い風を循環させるために個人ができることのひとつは、まず一人一人が快く循環する身体をもつことだろう。快は、快を誘ってつながり育つ。自分の個性に合う快について身体に尋ねてみよう。

6、からだの快と美

太極拳をつづけてはじめて、私は身体によって意識的に自分と宇宙がつながる快感に浸れることを知った。ヨガや瞑想やダンスやスポーツでその体験をした方もあるだろうが、私の場合は太極拳だった。そこで、太極拳がこの感覚を呼び覚ますメカニズムについて考えた。

それは、全心身の流れが一つに溶けあい、はてしなく遠くへつながる感じだ。けれどそのとき何か考え事をすれば、その快感はふいっと逃げてしまう。ゆっくり滑らかな身体の動きを、毎日のくり返しによって自動化し、動きに集中するところに快感の鍵があるようだ。隣り合う一つの細胞から細胞、筋肉から筋肉へ緊張や弛緩が次第に順に伝わってゆくとき、その伝達のリズムに乗った「気」(電磁気的なものかもしれない)が、身体の外へずっとはるかに延び、無限に外に満ちている「気」とつながる。つながって身体の中を「気」で満たし、ふさがっていた部分を開き、快を感じさせるような気がする。
       joy
地球語の記号は、巻いたものがひろがる形から、解放やエネジーのひろがりを表すが、このイメージが心と身体から外に溢れ出した感覚が快だ。必ずしも大きな動きは要らない。むしろ派手に動かないほうが体は開きやすいかもしれない。全身に息を行き渡らせながら、その行方を意識し、ゆっくり呼吸するだけでもこの状態は起きるかもしれない。ただ、滑らかに呼吸の動きが伝わるには、身体の柔軟性も必要だろう。

車で走るのと歩きながらでは、同じ場所でも異なって見えるように、動作も、速さ・滑らかさによって身体の感じ方がちがう。飛んだり跳ねたりして速く動けば、瞬間的にバランスを崩しても次の動作でカバーできるが、全身隈なく動きの波が伝わるのを感じている暇が一般人にはない。スキーやスケートの達人演技を観るとき、時間がゆっくり回るように感じる。3回転ジャンプのスピードの中でも、筋肉と気の流れが順に自然に伝わり、快感があふれ出ているのかもしれない。心底味わいながらくり返し動きの体験を積み上げた達人でなければ、速さの中での瞑想的な快を得るのはむつかしそうだ。

地球という惑星は、一種の独楽、常に回りながら全体の均衡をつづかせている。だから、くりかえし鍛えた中で危うさを克服しながら全体がつづく均衡を感じるとき、人は美しいと思う。人はみな地球の子ども。どの身体も、それ自身の中と外をつないで快と美を味わえるようにできている。円卓会議の中で、それぞれ両隣との間が和やかなら、全体も円滑に進む波に乗りやすい。どんな身体の中でも、隣り合う細胞と細胞、筋肉と筋肉の間が和やかになるような状況をつくれば、身体は快適になる。障害をもつ人も、痛みを抱える人も、身体の中を美しい光であふれさせリラックスできる方法は、探ればきっと見つかるにちがいない。
       beauty
息の仕方や身体やその表情を動かす方法は無限にあるが、次に主なチェック・ポイントをまとめてみる。その後、地球語のシンボル力を使い、イメージで心身を洗う方法の例を紹介する。それらを手がかりにし、また経穴・経脈・絡脈などの伝統的な知識も参考にして、あなた自身の身体が喜ぶ声を集めつないで自然な流れを見つけていただけたらと思う。どんな方法もお手伝いするだけで、自身の身体の声に耳を澄ますことがなにより大切だ。
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