"Tai Chi will tell you Tai-Chi"
「龍」から「クラゲ」へ
公園
「太極剣」そして広東人との出遭い
資本主義社会の落ちこぼれ
呉家太極拳
体の中のさくら吹雪
いやし
人は神?
私がまだ日本の片田舎に住んでいた40代のころ、テレビで中国人の太極拳のシーンを垣間見て魅せられた。そのときはまさか将来に「地球語」なんていうものを考え出し、その進めを太極拳が支えるとは想像すらしなかったのだが。人それぞれ顔が違うように太極拳もまたさまざま。案内書などとは違うかもしれないし、私自身、将来感じ方が変わるかもしれないけれど、これまで体験した太極拳について語ってみたいと思う。
○ "Tai Chi will tell you Tai-Chi"
1987年サンフランシスコに移住してまもなく、週末の早朝公園で太極拳をする集団があるというので行ってみた。20人ほどの白人男女が高齢の中国人の師とともにゆったりと動いている。しかしそのときの私は英語が不自由な上に背骨の故障を引きずっていて歩行さえも困難、彼らのなめらかな動きはまぶしすぎた。数年たち、痛みはあるものの自然に歩けるようになったとき、アジア美術館のTai Chi(カリフォルニアでは太極拳をこう呼ぶ。Tai Chi Chuanともいう。)初心者クラスを見つけてとび込んだ。
70歳くらいだろうか、長身の白人仏教徒、Burnett先生の最初の弟子となった。ほかにいた先輩は脱落したので週2回完全な個人教授を受けた。彼はゆっくり話し、開始前に先ず笑わせることを忘れない。彼のTai Chi暦2年半は浅いが、初心者の気持ちに丁寧に沿ってくださる。Tai Chiには多種多様あるが、彼のは、エネルギーのバランスに重点を置く、武道の延長というよりもニュー・エイジ風のスタイルで、近年90数歳で亡くなられたというHubert Luiさんのアレンジによるものという。そしてあとで写真を見てわかったのだが、Hubert Luiさんとは、私が渡米したてのころ指をくわえて観ていたあの中国人老師だった。
まず、Tai Chiの動きの基本の説明を受けた。柔・剛、軽・重、押す・引くなど常に陰・陽のつりあいのなかに動きがあり、一つの動きは次の動きを準備し、一瞬も滞ることなく全動きがゆっくりとひとつになめらかに流れること。ひざを曲げて体を沈める大切さ。けれども脚の指先より前にはひざを出さずひざを護ること。肘を曲げるときに鋭角にならないようおおらかに。丸いエネルギーを抱えようとする緩やかな弧の上体を保ち、両肩から両脚の付け根にかけての直方体を歪めない。頭は天上から吊られているよう、またすべての動きが丹田を中心に展開するよう心がけること。息の仕方は大切だが、いつ吸ってどの動きで吐くかに神経を使うことはない、"Tai Chi will tell you Tai-Chi"と彼は締めくくって実技にはいった。
これらの基本は、そうか、筆を持つときと同じだ、書道の感覚だ!私は20年間熱い蝋に筆を浸して冷めぬうちに布に描く仕事をしてきた。椅子ではなく、床に腰を据えて描いた。指や腕ではなく丹田から動かさずには描けない仕事だった。だからこれらの法則は私にはすぐに納得できた。息を吸いながら大切な線を引くことできない。それらは誰に教わるでもなく、長く作業を進める間に自然に体が学ぶ。筆法が奥深いのと同様にTai Chiも底知れず発見に導かれるものに違いない。けれども羽ペンや油絵の具を使ってきて、しかも長い手足をフルに動かして表現しダンスするのに慣れてきた西洋人にとっては、丹田を中心に動かすシステムの理解には時間が掛かるのかもしれないとも思った。
コツの納得がはやかったので、早速動きを憶えることに集中できた。1回1時間半7ドルの授業料は一般的には安いけれど、個人で地球語の準備にすべてつぎ込んでいる私にとっては重い。その日に学んだ動きはその日のうちに習得した。先生もじらさずに進んでくださった甲斐あって、ふつうは2年がかりという30分のフォームを4ヶ月で卒業した。お手本を見ながらでは真似ているだけでTai Chiではない。ほんとうのTai Chiは、これからはじまるのだと思った。"Tai Chi will tell you Tai-Chi"をこれから楽しもう!近所のミニ公園で独自の修行を始めた。
Burnett先生は、開始前によく「ムーシェン」(無心)といわれた。かつて試みた瞑想の体験中も私はこれが苦手だった。何も考えるなといわれると余計にイメージがどうしようもなく湧き上がる。湧いても湧いてもつぎつぎ打ち寄せる波で流すといいよと先生はいう。それでも流したはずのイメージがまた浮き上がる。「(公園に流れている)噴水の音に集中してごらん」ともいわれた。けれど、水の音は水にちなむいろんな思い出を次々に引き出してくる。
どうせイメージが浮かんでしまうならいっそ「動き」を育てるイメージを積極的に追ってみよう、と思い付く。まず力強さを加えるために「龍」になってみた。はじめる前に目を細めて「私は龍だ」とインプットする。爪は指の長さほど長く、そこから青い炎を吹き上げている。体重は百トン、身長ほどの尾を後ろに引き摺っている。つん伸びている眼下の芝の葉は針葉樹の林だ。雲の上、海中をもこの龍のからだが自在に動く。このイメージ作戦は面白いように成功したと思えた。動きと龍のイメージを体で結び付けているために、他の考えごとが入り込まなくてすむ。重さ・巨大さのイメージが動きと呼吸をゆっくり大きくする。腕を鋭角に折るちぢんだ動きや身軽なダンスのようにはぜったいにならない。私は当分「龍」になるのを楽しだ。
しばらくして力強さに倦んだころ、モントレイの水族館に立ち寄るチャンスがあって新設のクラゲコーナーを観た。ひらひらの脚の長さが2メートルもあろうかの薔薇色の大クラゲが、全身で水を呼吸していた。みごとな花が水のなかで開いたり閉じたり、ゆったりしたリズムでくりかえしている。繰り返してはいるが少しずつ向きをかえ形をかえ、動きがすべてこの上なく自然に心地よくつながっている。宇宙が呼吸する姿のように見える。なんて優雅なのだろう!私のTai Chiが「龍」から「クラゲ」に変化したのはいうまでもない。
私のTai Chi開始時期は、地球語の試案を現在のような仕組みに組み上げ直す時期に一致していた。地球語は憶えやすいけれども、憶えやすく仕組む段階の脳の負担は大変なものだ。わずかな記号しか使わないが、すべてがネットワークし、何でも対応できなければならない。百万語もの辞書の可能性を頭の中で探りながら基礎文字の形と意味の取り合わせを決めていくのだ。イメージの位置づけと大量の活性化した記憶保持が必要だった。記憶力減退の著しい50代の頭では、週末に休みをとるともう忘れてうまくいかない。連日連夜没頭するしかなかった。家事の間も考え(これが効果的ではあったが)、夢の中にまで記号が溢れた。Tai Chiの時間だけ、すべて忘れて「龍」になり「クラゲ」になることを私は自分に許した。
最初は忘れる時間を取ることを恐れたが、この効果に次第に驚いた。一日一度、自分自身が考える頭脳を持たないクラゲになるとき、それまで分析しクローズアップしていた概念や記号がいったんカオスの中に戻される。そして再び仕事に戻ったとき、全体の流れの中で別の目でそれが見えてくるのだ。海に抱かれてゆったりと大クラゲの呼吸をするとき、張りつめていた神経がいやされるのだ。
独習は、真髄に近づくのに欠かせないが次第にフォームを変化させるので、私はときたま同じ流派の先輩たちの練習に加わえてもらった。けれど普段は家から1ブロックのミニ公園で独りでする。柳のようにしだれる種類のユーカリの樹が大きな屋根を作り、強い日差しや小雨や霧から護ってくれるので、大雨でないかぎりその樹の下に毎日出かける。人に迷惑をかけない限り、独りででも公園で気軽に好きなことができるのがこの国のいいところだ。お昼を食べに来る人、他の体操をする人、犬の散歩やひなたぼっこする公園の利用者たちとは道でであってもHi!と声を交わすようになる。
ロシア人たちがよくこの公園で子守りをしている。大概の赤ん坊は太極拳を見るのが好きで、真似たりもする。ロシア語を話すようになると、ことばが通じない私も太極拳も無視しはじめるのだが。犬や猫も散歩にくると、邪魔しないよう引き離そうとする飼い主を引きずって近寄ってくることがよくある。すぐ近くのフェンスに短い綱でつながれた、GG公園警備のお巡りさんの馬が足踏みしながらちらちら横目で見ていることもある。なれてくると、クラゲになっていてもそれらの光景が半意識の中で見えている。気を取られてしまうと、太極拳の気分は逃げていくのだけれど。
小鳥たちも平気で足元までくる。ロビンなどは冬の間毎日のように植え込みの下からながめいた。茶色のベストにフロックコート、うしろ手の校長先生が監視しているようで、「校鳥先生」と呼んだ。あたたかくなると頭上の枝の中でハミングバードがさえずり、青いスクラブジェイやモッキンバードが巣作りの小枝集めをする。太極拳の動きは、警戒心を起させないらしい。常春のサンフランシスコにも毎日わずかに変化する自然があり、太極拳の背景の中にそれを感じるのもいい。
ユーカリ柳をはさんで反対側で太極拳を練習する中国人グループとときどきかち合あった。ずいぶん違うやり方だなぁと思いながら、会釈するだけで私は私でしていた。たまに彼らの老師ひとりだけのことがあった。樹をへだてて別の動きをする彼のリズムや深く静かな呼吸が伝わり、シーンとした響きが私の動きにも共鳴した。なにか、中国の持つ永ーい時間に触れるような、懐かしいような、見えない大切なものに手をさしのべるような…いつまでもそうしていたい気がした。
98年初夏、10年ぶりの日本を体験してこの公園に戻ったとき、久しぶりにその老師をみた。なんと他の二人に「剣」を教えていた。太極拳のときとはうってかわって輝く剣をひらひらと扱い、まるで孫悟空のように身軽だ。私は思わず見とれた。年配の生徒が「やってみたいか?」と不確かな英語で私に尋ねてくれた。イエースとうなずくと、週日の正午頃ここへこいという。喜んで老師の顔を見るとにこにこしている。「北京人か?」とまた同じ人に尋ねられ「日本人です」と答えると、彼と老師の顔がとたんに曇った。単に言葉の通じない心配だけではなさそう。なにか過去の記憶の暗さのような辛そうな表情が一瞬走った。戦争に絡む思い出をお持ちなのかもしれない。彼らは広東人だという。
私は手持ちの割り竹を芯に新聞紙と銀色のテープを巻き付けて即席の安全刀を作った。つかの部分のみ布と糸をきれいに巻いて掴みやすくした。翌日その剣とノートとペンを持って練習に出かける。なにか責任に似た気持ちを感じながら頑張ってみようとおもう。ぴかぴかの剣を持つ彼らはその剣に笑いながら、でも快く仲間入りさせてくれた。老師は意外におしゃべりだったが、開始前の解説なのか世間話かさえ私にはわからない。動くときだけ見よう見まねでついていくしかない。すでに進んでいるらしい2分ほどの動作に4、5動作を続け、新しい部分のみもう一度くりかえすだけで、剣の練習は一日数分のみとわかった。太極拳に比べ動きが速いので、何をしたのかも分からないうちに終了。いつか追いつけるのだろうか?
終了後Teaに誘われた。お茶と思ってついていくと中華レストランである。でもなるほど「飲茶」(ヤムチャ)と看板にはあった。そこではペンが出番となる。彼らは日本人とでも同じ漢字でいくらかは通じるのだと知り、白い紙のランチョンマットが黒く見えるまでに筆談がはずむ。何(ホウと読む)老師は小柄なのにおおらかな達筆で84歳、16年前に娘の家族とともに移民したが英語は数語しか知らないという。太極剣と太極拳は日本語では同じ読みになるが、広東語では剣はギムと発音する。師は私の求めに応じて伝統ルーツの図式を作ってくれた。少林功夫から約500年前に太極始祖・張三フォン(朋の下に豆を書く文字)によって開かれ、それが陳・楊・呉・孫などの別派に別れて伝わり、何老師は始祖から4代目で別れた呉家太極拳の流れを半世紀近く続けているという。
ちなみに「老師」は日本語では年配の師をイメージするが、中国語では年齢を問わず「先生」の意味、「先生」はミスターと同義の敬称という。「脚」は日本語の「足」のことで、「走」は「歩く」の意味、うっかり通じたつもりでいるととんだ間違いの可能性もあることが分かった。後で調べると、輸入した日本のほうが旧いままの意味を保ち、本家のほうで変化がはげしいらしい。日本で造字した漢字もあるのでうかつに書くと首をかしげられてしまう。
無口な40代後半に見えるQ氏は、ベトナム戦争の体験者で避難民、背骨や脚が金属で補修されているといい、元はハンサムに違いない顔面にも傷あとがあり、前歯が欠けている。2人の生徒はともに妻が勤めに出ていて、自由時間を持つ彼らは近くの教会で英語を習うついでに太極拳に来ているという。もう数年も英語を習っているというが、片言しか通じない。会話の中で妻や娘の話をするときでも代名詞をHeとしかいわない。そこで、筆談と仕種で広東語の三人称について尋ねてみた。三人称は「他」だけで、男女を区別する概念がないのだとわかった。将来、地球語での筆談も、いろんなカルチュアを克服しながらこんな感じで行われるのかなぁと想像しながら、地球民間の基準の概念の設定に際しての要注意点に気付かされるのだった。
食後、割り勘が当然のこの国の習慣にしたがって財布を取り出そうとすると、「ここは中国だ、今日は自分が持つ」と、年長のW氏が押しとどめた。授業料のことを尋ねたが、これもいらないという。資本主義一辺倒で何もかもお金で計算されるこの国で、それに抵抗して生きてる仲間がいたのだ、なんて懐かしい!
ただほど恐いものはないともいうが、私の大事な部分は人からの恵ぐみによって育てられてきた。授業料を払って習ったことは、計算できる利益しか産まないが、無料で身につけさせてもらったことは無限の感謝と成長を生む。その重さ・しがらむうるささを気にする人が多いのだが、アートや人情の世界で限りない深さを求めながら有限の値を付けるのは「うそ」と感じないではいられない。
20代半ばの頃、私は藤原一善師の感性に魅せられてローケツ染めを手がけたくなった。「わしゃ、弟子はとらんよ」という仕事場へ勝手に押しかけて見守り、やりかたをぬすんだ。師は次第にぬすませることを楽しんで、私は無料の授業(?)を受けるだけでなく、行くたびに上等の薄茶、コーヒー、そばなどのもてなしを受けた。当時貧乏で新米の主婦だった私には大変ありがたかったので、何かお礼をしないとというと、「持つものが持たないものに与えれば世の中うまく回転するのよ。お礼をする気があるなら、将来次の世代にしたまえ」と、いつも答えられた。師の作品はほうがいに安かった。「わたしはアートを楽しんでるからね、食べていけたらそれでいい。お金は、持たなきゃ安心できないやつがとりゃあいいの」という論理で、清貧を楽しんでおられた。そんなだったので私の周囲の資本主義社会人たちは皆彼には近づくなと私に警告した。
盗み取った技術を駆使してこれなら街に出してもいいかなと思う品ができたとき、ある機関に持ち込んだ。値段を付けなさいといわれた。売るために相談に来ているのだから値段をつけるのは当然である。ところが私にはその心準備がなかった。それを作った心に似合う値段なんてどうすれば思いつけるのかわからない。無理に付けようとするとぽろぽろと人前で涙がこぼれた。「どうしたんです?僕なにか傷つけることいいました?」相手の困り顔に苦笑を向けながらも涙が止まらず、私はそれらを持ち帰ってしまったのだった。
プロになるにはどうしても売る仕組みに乗らねばならない。私は次回から、材料費と発想や計画の時間も加えた労働賃として物理的に値段を決めることにした。だから、丸めて捨てたい作品のほうが手放すのが惜しい愛着のある作品より安かったり、しかも先に売れたりした。作品が印刷物に使われたときには、現物は戻ってきて、しかもオリジナルに私が付ける値段よりもはるか高額が転がり込んで目を丸くした。
お金は魔物、売ることはそれなりにゲームのように楽しい。しかしゲームの楽しさはルールに基づくものだ。そしてお金を基準とするこのルールは、「今」の大衆的価値観に基づいて展開する。売れるのは今多数から価値を認められるもので、遠い未来、永遠に通じる奥を追求したものでないことが多い。私の制作する心は、お金で左右されたくない。どうやら師匠からぬすんだのは技のみにとどまらなかったらしい。「こころ」の照準は売ることからはずして不合理なままの自由を保ちたかった。私のところに指導を求めて人々が来るようになったとき、「ぬすんだ技術を売るわけにはいかないんで、どうぞあなたもただでご自由にぬすんでください」というと、かつて喜んだ私とは逆に、ほとんどの人は習うのをあきらめて帰った。試した女性も、でき上がりの見かけとは異なる作業のきつさに驚いて続かなかった。師が弟子はいらんといわれた理由を私も理解した。
私は今合理性を追いかけている。それは異文化を仲介する言語にはそれが必須だからだが、「価値を判断する心」は人それぞれ固有のものである。世界中同じ基準尺で一律に計られたのではたまらないと今もおもう。お金を今動かす能力の大きさと、人としての価値の大きさが同じとは考えられない。この感性は、資本主義の徹底したアメリカ社会では落ちこぼれを意味する。さびしいかった。
ところが、在米中国人社会の中ではそんな落ちこぼれ組みが堂々と暮らしていた。懐かしさは、そんな生き方の根にも通じていたのかもしれない。何老師がお元気なうちに太極拳や剣のお姿を記録できたらと、可能かどうか尋ねてみると、きっぱり断られた。そのときもむしろ快かった。ハイテクで彼の真髄は伝わらないといいたいのだろう。またそのテープがお金の対象になりかねないことも恐れてに違いない。失われた昔の日本の職人や武道家などと同じ息が活きていると感じてうれしかった。
剣の練習は数分にすぎないが、その前に彼らは一通りの太極拳を練習する。それには女性たちも加わり、多いときには総勢7、8人になった。動作ごとに名前が付いていて師はその掛け声で進めるので、何年かは続けているらしいみなは順序を間違うことなく付いていく。動作の名前は漢字を見ないことには私には通用しないので自信はなかったが、割り込ませてもらった。
呉家太極拳は武術に近く、ストレッチの動作が多い。前屈して両手を地に付ける動きからはじまるのだが、師は84歳とは信じがたい柔軟さだ。白人グループではスニーカーの足や半球状に開いた手がまとまって動いていたのが、同じような靴を履いていてもその中の指や手の指の各関節や筋肉が順々に別々に動くように感じる。はじめて太極拳の理論を聞いたとき書道に似ていると感じたが、彼のやり方はまさにそうで、ときには、筆の折り返しの止めのようにほとんど動きを止めて力を入れ直すことがあり、終始一貫リラックスのクラゲ・スタイルとはちょっと違った。老師の人差し指と親指はときに180度も開くことがあり、魔法の親指をさして手まねで尋ねた。彼の手は象牙彫りの職人のものだったとわかった。彼のアートが彼自身の動きになっているのが彼の太極拳と思われる。
一通りのフォームを終えてから、ある動きがどんな場合の闘いの手からきているのか説明を受けることもあった。生徒に攻めさせ、小さな体で定形を使って軽々とはね返してみせる。これは腕の高さや動きかた、目の位置のありかたを納得させた。私が間違った足の構えをしていたりすると、師は言葉が通じないので遠慮なく足で蹴って知らせた。腕をちょっと取るにもエクスキューズ・ミーと断るエレガントなBurnett先生とは対称的だ。剣では殊にストレッチが多い。故障を持つ私の背骨が耐えられるかと最初は恐る恐るだったが、毎日続けていると体は次第に軽く動き出した。
3ヶ月続けて、順序はともかく各動作がだいたい頭に入り、剣は全体の半ばまで進んだ。そこで突然何老師からあと1カ月でサンフランシスコから片道1時間ばかりの街に引越すと知らされる。他の二人は剣をあきらめることにした。私はのっているのに中途で放り出されたくはない。時間より早く出かけて剣を練習し、現れた老師をつかまえて先をねだった。そうして最終回には、あやふやながら最後の動作まで行き着いた。はじめて誘われたときと同じレストランでみんなでお別れの昼食会をした。
また独習がはじまる。剣の動きを遅くしてみる。すると重心のかけ方や剣の角度などの細部がまだ疑問符だらけなのに気付いた。"Tai Chi will tell you Tai-Chi"を思い出し、最も自然な動きにするにはどう続けるのがいいか研究する。GG公園に別の太極剣も見に行って参考にもする。次第に全体が一つの流れとしてつながりはじめた。しばらくぶりに老師の来訪があり、見てもらうと、ずいぶん創作をしてしまっていたらしい、あちこちで手直しが必要だった。
そしてこの3月、私はその日師にお会いできるとは知らず遅く出かけ、ちょうど入れ違いにお帰りになるところだった。師は、黒い見慣れたケースを私の手にぽんとのせて行ってしまわれる。それは、この間までお使いになっていた剣だ。収納時には先のほうが手元の部分の中に順に畳みこまれて30cmくらいになる、ほかでは見たこともなかった剣だ。「ユアーズ」とWさんがこちらを見て笑っている。もう一本あるのでこれは私にくださるというのだ。早速試用してみた。新聞紙の剣に比べると重いがしっかりした手応えが心地いい。振りかざすと光り輝く。つかの下にはイン・ヤンのマークがついている。私は飛んで帰って墨を磨り、鉢巻きしたウサギがユーカリ柳の樹下でこの剣を両手で捧げてお辞儀をしている淡彩をしたためた。「謝謝」と書いて投函しにいった。過去に拘りがあったかもしれない国籍差とことばの違いを越え、心からコミュニケートできたと感じていただけたしるしに違いないと、なにより嬉しかった。
呉家太極拳と太極剣の練習は動きと呼吸を安定させた。陰・陽のエネルギーを自然にバランスさせた。大クラゲ気分でやるHubert LuiのTai-Chiも捨て難く、可能な日には自習時間を1時間余に延長した。安定して連続する動き・呼吸に深く沈潜し、動く体そのものを「感じる」ことに専心するようになった。すると、無表情・無心の努力をしていたときには起きなかった現象が起きた。なんともいえない感情が全身に満ち満ちてゆきわたるのだ。悲しい気持ちかどうか分からないが、全身の中を涙が流れ洗うような、体の中がやわらかなさくら吹雪に包まれるような。すばらしい音楽のまっただ中に居るような、全細胞がエネルギーを持って震え出すような。
これが、アルファー波といわれる脳波が盛んに出ている状態なのかもしれない。…などと感じたことをことばで捉えようとすると、その現象はふぅっと消える。しっかりと掴まえようとするとどこかへ行ってしまう。
そうか、私は漢字のトリックにかかっていたらしい。「無心」は、むしろ「無考」の意味だったのだ。運動脳・感覚脳・情動脳は連動する。感情に蓋して動いても体全体が一つになって振動しない。運動に連なってさまざまな感覚や情動が開放され、その流れに湧き立つ花吹雪を浴びるのが太極拳だったのだ。感情を「表現」しようとして動くダンスなどとは違い、動きそのものが引き出す感情を全身に漲らせ味わうのが太極拳だったのだ。感情をことばで表そうとすると逃げてしまうので、どう表現していいかわからないが、ときには歓喜に、ときには悲しみやかゆいところをを掻く気分に似ているとも感じられる。指一本ずつがわずかな時間差で連動するとき、顔の表情筋が静止状態ではこれも不自然だ。顔の表情も刻一刻の体の動きにつれて微妙に変化して当然だ。私は動きの流れの中に気分をゆだねることをおぼえた。
こうして私は、生まれて以来付合い続けている自分の体のなかに未知の宇宙を発見した。なにやら永遠の時間に通じるやわらかな、それでいて体内を限りなくひろげるような力がみなぎる。現象は長くは続かないが、消えてもやすらぎの感覚が長時間続く。落ち込みの日もこの現象を起せば立ち直れる。心と体は別のもの、意志によって動いている、と思いがちだけれども、神は(自然は)、ひとりひとりの体がその心をコントロールし、体によって自然なやすらぎを取り戻せるようにも仕組んでいたらしい。新しい発見の喜びとともにそう感じた。
もちろん意志や潜在意識が体に大きく作用するのも疑えない事実だ。ストレスの多い日には上滑りして安らぎの境地には至りにくいし、風の強い日や周囲に騒音がおびただしい日も集中困難だ。仕事がつかえて焦りがある日には、努力しても動きが速くなり順序を飛ばしたりしてしまう。心と体は少なくともこの世では切り離せない一体なのだ。修行を積めば、どんな中でもこのいやしの現象は得られるのかもしれない。現に、コンピュータに向かう長時間の作業で疲れたとき、両手で見えない球をゆっくり動かして呼吸を整えるだけでもインスタントに脳がリラックスに向かうのがわかった。
瞑想の達人は座して呼吸に沈潜するだけで、この平和な境地にいられるのかもしれない。呼吸は命に関わり、動きの中でも最もバランスに関わる要素だ。「生きる」は、「息する」だ。アニマルのアニムも「息」だという。古人は「食べる」存在であることよりもまず「息」によって生きものを表した。現代人はつい無意識にせかせかと呼吸しているけれど、本当に「生きる」とは、安定した正しい息をすること、その状態を保って生きることなのかもしれない。それを取り戻す技が瞑想や太極拳だともいえるだろう。
ヒトは、心によって病を引き起こすけれども、自分の体と心で元に戻すこともできるよう仕組まれていると感じると、なにやら安心する。どんな困難な境地に陥っても安らげる方法を知っているから。日に日に迫る老いを感じつつ異国で途方もなくでっかい課題の「地球語」に孤軍奮闘中の私には、現実的な不安がいっぱい。太極拳という「ただ」の精神安定剤を身につけたことに感謝しないではいられない。ミロシェビッチを含むコソボの人々にもこの術を分かち合えればと願ってしまう。
太極拳の動きとともに息がゆったりと吸い込まれ安定して吐き出されるとき、体内に湧く感情のようなものは、体内だけでこだましているのではない。体の周囲にも溢れひろがるのを感じる。見えないけれどもある種の抵抗のあるなにかが体の周囲にひろがる。感情のようなものが直接溢れ出しているのかどうかはわからない。体内の電気的現象に作用する磁場のようなものが周りの空間にできるのかもしれない。ベールをまとうような実体感がある。それは動きや感情のようなものの流れに伴って一緒に姿を変えるように感じる。
オイリュトミー芸術を提唱したルドルフ・シュタイナーはベールを小道具として使ったが、あれはこの現象を一般の人にも見えるように表現したものではなかったろうか。魂の生活の多様化・充実により、内的霊的なものが活性化され命を持った動く形態となるのがオイリュトミーだという。彼は、気分や理念や音声などの見えない要素を目に見える基本的な動きとして表現し、言語的にも理解可能なアートにまで高めた。
* topos (シュタイナーに関する沢山の翻訳資料があるサイト)
動きは形に通じる。「地球語」の基本記号の形や呼び名を決めるに当たって、私は、オイリュトミーの共感覚に通じるとされる言語的な対応を私自身の直感で確かめながら参考にしたのだった。
* 『オイリュトミー芸術』高橋巌訳を参考にした。
シュタイナーの場合には、内的な概念・理念を先に持ち、それを動きで表したが、今私がしているのはその逆。動くことによって動きそのものが引き起こす内的なものを感じようとしている。この場合、彼のように言語的対応を見つけるのは難しい。旅人李白を乗せて揚子江に漕ぎ出す船頭の気分、白みかけた空の下でいま開こうとするアサガオの気分、表現するにしてもこのように複雑だ。それに、活性化した気分をその場で「これはなんだろう?」と言語的に考えると、その気分は逃げてしまう。脳波を測定して脳の活性部分の配置を調べれば、感情の種類と動きの関係、そしてそれに民族を問わない共通性があるかどうかを科学的に確かめられるかもしれないけれど。ともあれシュタイナーと私は逆の意味で動いているのに、同じようにベールのような見えない実体を感じるのはおもしろい。
動きにつれ体の周囲に実感するものは、私にとってはベールのように端が断ち切られたものではなくて、次第に感じにくくはなるけれども宇宙の果てまで続いているような気がする。私の個体はここにあるのだけれど、なにやら溶け出していくものは、果てしなく宇宙に同化する。死んで体がなくなると、このように平和な宇宙の響きの霊的な波として誰もみな同化してしまうような気がする。
そんなふうに感じながらの太極拳が続くとき、体を動かしている自分の意志や意識はどこにあるのかわからなくなる。長距離歩行でいいリズムに乗ったとき、全く歩いているという意識なく勝手に体が動き、疲労やエネルギーの消費を感じなくなることがあるが、これに近いのかもしれない。ひとりでに誰か他の存在が私の体を操っているように感じる。「何してるの?」「人形になってるんでしょう?」「きっとそうなんだ、人形でしょ!」見ていた無邪気な子どもたちから何回このように話し掛けられただろうか。
ベールで私を操っているのは誰なんだ?宇宙の果てから振動を伝え、この体を動かし、体中の細胞を揺さぶっているのはいったい誰?一人一人の体は、神の末端の表現形態なのだろうか?宇宙・大自然の霊的な内容を多様化し、充実を図るための小さな末端として私たちの体は存在しているのだろうか? 大きな戦争や社会のうねりも神の内的体験の一表象なのだろうか?「地球語を創るのは神の仕事ではないか」との質問を受けたことがあるが、もしかすれば本当のところ大自然の仕事で、筆者や巻き込まれた仲間はほんのその爪先にも当たらないのかもしれないと思えてきた。